前回、「住んでみたい場所」の記事をサクッと書いて終わろうと思ったものの歴史を調べ始めたら、はまってしまいました。 という事で、オランダと日本の歴史について、前回に続き調べてみました。
1600年にオランダの漂流船が流れ着いた事から日本とオランダの交易の歴史が始まりましたが、大航海時代や東インド会社など西洋の歴史と絡み合いながら、江戸時代に蘭学が花開き、日本にとってオランダが特別な国になっていく歴史は非常に興味深いです。
finitykt.hatenablog.com
...と、その前に
今週のお題「寿司」
聞いた話では、オランダにもお寿司屋さんはあるようです。 アムステルダムの回転寿司屋さんの名前はZushi。 食べログに地図や写真がありますので、行かれる予定の方は、どうぞ!!
これも人に聞いた話ですが、オランダ人はウナギの燻製を食す為、鰻のお寿司が喜ばれるとか... (もちろん、個人差があるので、なんとも言えません。) オランダの鰻の燻製については、こちらをどうぞ ↓
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日蘭貿易と江戸時代
ポルトガルとオランダ
歴史上最初に日本に上陸したオランダ人は1600年に漂着したオランダ船の乗組員でしたが、この船に非常に興味を持ったのは徳川家康でした。 まず漂着船「リーフデ号」が運んできた武器を全て没収しました。 そして、オランダ人乗組員のヤン・ヨーステンと英国人ウイリアム・アダムスに江戸に来るよう命じました。 意外な事に、この時の取り調べの通訳はポルトガル語の通訳でした。 ポルトガル人が日本に最初に到着したのは1543年。 オランダ船に先立つ事50年以上前の事です。 当時のアジアはマラッカやマカオをはじめ、ポルトガル人が多く住み、日本だけでなく、国際的な言語としてポルトガル語が使われていたのだと想像できます。
なお、この頃はカトリックに改宗した熱狂的な信者たちが、幕府の権威を脅かし、徳川家康はキリスト教弾圧に本腰を入れ始める時期でした。 その為、キリスト教布教には一切関わらない方針で、目的を貿易にフォーカスするプロテスタント系のオランダ人の日本漂着と、それに続く幕府との信頼関係の構築は、まさに良いタイミングでした。
彼らの忠誠がもたらした最大の成果は、幕府からオランダに発行された朱印状、つまり通商許可証です。 漂着から9年後の1609年にオランダ船が平戸に入港し、日蘭貿易が本格的に始まる事になりました。
その後、1641年から1853年まで200年以上続く鎖国の時代、幕府は国を閉じていましたが、オランダと中国の2国のみとは交易を続けました。 つまり、200年以上続いた鎖国政策の中、オランダは日本における唯一無二の西洋国で、ヨーロッパ各国の化学、医学、知識、産物、兵器などを長崎の出島を通じて日本に紹介し、日本の品物や知識を西洋の世界に輸出する貴重な存在でした。
平戸オランダ商館時代 (1609-1641)
オランダ東インド会社と朱印状
徳川幕府が成立した1603年、徳川家康は、貿易を許可する朱印状をオランダに与えました。 朱印状はリーフデ号漂着の乗組員に託されましたが、その後、貿易が始まるまでに数年間を要しました。 まず、乗組員は日本のジャンク船でパタニ(現タイ)に到着したのが2年後の1605年でした。 オランダ側で朱印状を受け取ったのはオランダ東インド会社(VOC)のマテリーフでしたが、この人はリーフデ号の生存者クアーケルナークの叔父でした。 オランダ東インド会社の設立は1602年ですので、徳川家康が江戸幕府を開く前年の事です。 オランダ東インド会社は世界で最初の株式会社と言われています。 それまでアジア各地に散らばっていた小規模なオランダの貿易会社を強大な組織にまとめあげ、商船団を組み、世界の貿易を一手に掌握することを目指していました。 また、東インド会社は単なる貿易会社ではなく、オランダ政府は外国政府と通商関係を結ぶ権限も与えていました。 二回目に発行された朱印状では、幕府はオランダが日本のすべての港に入港できる許可も与えていましたので、当時の幕府は貿易を強く奨励したいと思っていたようです。 なお、この朱印状は現在、オランダのハーグ国立中央文書館に保管されています。
なお、そのレプリカは平戸オランダ商館で見る事ができます。
しかし、実際にオランダ船が日本の港に入港し、将軍の意に添うことができたのは1609年に東インド会社の公式船団2隻が平戸に到着した時点です。 この時、オレンジ公マウリッツ王子からの国書が受け渡され、日本とオランダとの貿易が初めて正式に認められました。 しかし、残念ながら当のオランダ人は、平戸に商館が置かれたことをそれほど歓迎しませんでした。 その時点で、すでに裕福な商人のほとんどは、平戸ではなく長崎周辺に住んでいたからです。
(平戸と長崎の距離感は、こんな感じです。 ↓)
オランダ人の海賊行為
なお、オランダ人は漂着して以来1641年までは、自由に外を出歩くことができ、日本人との接触についても何ら制限を受けていなかったようですが、日本との貿易は順調ではありませんでした。 東インド会社は中国に商館を持っていなかった為、日本で需要が高かった生糸を十分に供給することができなかったからです。 その為、オランダ人達は時にポルトガル船を襲い積み荷を強奪していたようで、ポルトガルはオランダ人の海賊行為に対する抗議を幕府に申し入れた程でした。
キリシタン禁令
朱印船貿易がさかんになる一方で、幕府は外国人との接触に対し規制を強め、ついに1614年キリシタン禁令が発布され、日本で布教活動をする宣教師や有力なキリシタンはマカオに追放されました。 1621年には日本人が許可なく外国船に乗り込むことが禁止され、やがて海外渡航も全面禁止となりました。 その後、1639年に混血児の追放が始まり、その中には平戸のオランダ商館長ファン・ナイエンローデの娘もいました。 日本を去った混血児は、日本の家族と連絡を取ることさえ許されませんでした。 故郷恋しさのあまり絹の着物地にしたためた「ジャガタラ文」と呼ばれる手紙が、平戸郷土観光館に展示されています。 その後、1657年になると幕府は規制を緩め、家族の近況を書き記した「音信」を送ることを許可し、コルネリア・ファン・ナイエンローデが平戸に住む家族に向けて送った音信は平戸郷土観光館に所蔵されています。
因みにキリシタン禁令に伴い、キリスト教は隠れて信仰されるようになりました。 隠れキリシタンの里は日本各地にあり、大阪でも隠れキリシタンの痕跡を観ることが出来ます。
長崎の人工島「出島」
島原の乱とポルトガル人の追放
さて、ポルトガル人を日本人から隔離する為、幕府は人工島を建設しました。 これが出島の始まりです。 1636年にポルトガル人は出島に住居を定められましたが、3年後の1639年に追放されることとなりました。 追放の理由は島原の乱でのキリシタン反乱軍幇助の容疑でした。 オランダ人は、この戦いで幕府側について戦い、ポルトガル人を追放しても、オランダ人が日本に輸入品を供給すると幕府を説得しました。
平戸のオランダ商館取り壊し
当時、平戸のオランダ商館には、火災から商品を守るため石造りの倉庫が2棟あったと言われます。 倉庫の破風にはヨーロッパの慣習から「Anno Christi 1640」、つまりキリスト生誕から1640年と記しました。 この一件が災いとなり、オランダ人はポルトガル人がいなくなった出島に移転させられることになりました。 1641年、平戸のオランダ商館は取り壊され、オランダ人は出島に移動する事となりました。 以来、日本が南洋や西洋の文化と接する唯一の場所は出島となり、その相手国はオランダのみとなりました。
その後は、蘭学の発展など、オランダは江戸時代の日本の文化に大変影響を与えることとなります。
...ここまで書いて息切れし始めた為、続きは後日。
なお、上記はWikipediaとオランダ大使館の公式ページを一部引用しました。 正確な歴史及びオランダと日本の詳しいエピソードについてはオランダ大使館の公式ホームページを参照ください。
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今日も最後までご覧頂き有難うございました。 m_ _m
実は私は長崎をはじめ九州に行ったことがありません。 息子は中学の修学旅行で長崎を訪れましたし、私の母も何度か旅行で行っていますが、彼らの話で想像するしかありません。 コロナ禍が落ち着いたら、機会を見て、一度、長崎に足を運んでみたいと思います。
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長崎と言えばカステラ。 (これはオランダではなくポルトガルがもたらしたものですが...)
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